『今日のフランスにおける社会主義と共産主義』(Der Socialismus und Communismus des heutigen Frankreiches)は19世紀ドイツの国家学者であるローレンツ・フォン・シュタイン(1815年‐1890年)の1842年の著作。社会主義や共産主義、プロレタリアートといった概念をドイツにおいて初めて学問的に紹介した書であり、パリに行く以前のマルクスはこの書物から大きな影響を受け、共産主義に接近していくきっかけになった。 [編集] 本書成立の経緯 ローレンツ・フォン・シュタインは1841年10月から1843年3月までパリに留学し、フランス法制史を学びつつ、エティエンヌ・カベ、プルードン、コンシデラン等の社会主義者、共産主義者と交わり、そこで得た知識から本書を1842年に執筆・刊行する。 [編集] 本書の構成 本書『今日のフランスにおける社会主義と共産主義』は以下のような構成になっている。 序文 第1部「平等の原理」 1 プロレタリアート フランス史における平等原理の展開 2 革命以前のフランス社会における対立 3 三つの憲法、1791年、1793年、1795年 4 革命後のフランス社会における対立 5 ブルジョアジーと人民 6 帝政期と王制復古 7 七月革命 8 その諸結果 9 フランスにおける平等原理の有機的形態化の開始 第2部「社会主義者たち」 1 社会主義の科学的一般性格 2 サン=シモンとサン=シモン派 (1)サン=シモン 第1期――1797年まで 第2期――1802年まで 第3期――1814年まで 第4期――1825年まで (2)サン=シモン派 FX 第1期――七月革命まで 第2期――七月革命とサン=シモン主義 第3期――分裂と解体 3 フーリエ主義総説 (1)シャルル・フーリエとその学派 (2)フーリエの体系 (i)その基礎 (ii)衝動論 FX (iii)フーリエの宇宙生成論 (iv)歴史哲学と現代文明批判 (v)調和的労働の理念 (vi)ファランジュとファランステール 第3部「併存する著述家たち」 1 一般的性格 2 F・ド・ラムネー 3 ピエール・ルルー 4 P・J・プルードン FX 5 ルイ・ブラン 第4部「共産主義」 1 その本質 2 共産主義の史的性格 3 共産主義の歴史 第1革命期の共産主義、バブーフ 七月革命後の共産主義 第1形態、1830年 - 1835年、共和主義の時期 第2形態、1835年〜1839年、バブーフ主義の時期 第1形態、1839年以降、プロレタリアートと本来の共産主義 (1)平等主義的労働者 FX (2)改革主義者 Reformistes (3)狭義の共産主義者 結語 付録T「フーリエの体系補説」 付録U「カベーの共産主義『共産主義者の信条』ドイツ語訳」 [編集] 本書の影響圏 マルクスはこの著作を読み、決定的な影響を受けたことが知られている。マルクスはカール・グリューンの『フランスとベルギーにおける社会運動』(1845年)がシュタインの本書を下敷きにしていることを指摘。シュタインの著作の方を高く評価している。FX取引、FX初心者、くりっく365、FX口座開設、FX資料請求 またシュタインのこの著作の第1部第1章「プロレタリアート」には「(サン=シモン主義、フーリエ主義)この両者と並んで、共産主義という不気味で恐るべき幽霊が現れてくる」という一文があり、この文章はマルクスとエンゲルスによって執筆された綱領文書『共産党宣言(共産主義者宣言)』(1848年)冒頭の一文と酷似している。 石塚正英は自身の研究から、『共産党宣言(共産主義者宣言)』(1848年)の内容にはマルクス、エンゲルスの思想とは別に、シュタインのこの著作に影響を受けた共産主義者同盟幹部の職人革命家たちの政治的見地や社会的意識が反映されているとしている。 "http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E6%97%A5%E3%81%AE%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E3%81%A8%E5%85%B1%E7%94%A3%E4%B8%BB%E7%BE%A9" より作成 カテゴリ: ヨーロッパの社会主義 | ドイツ社会主義 | フランス社会主義 | 共産主義 | 政治学 ローレンツ・フォン・シュタイン(Lorenz von Stein、1815年11月18日 - 1890年9月23日)は、フランス初期社会主義・共産主義思想、並びにプロレタリアート概念をドイツにおいて、初めて学術的にまとめて紹介した国家学者。また、伊藤博文にドイツ式の立憲体制を薦めて、大日本帝国憲法制定のきっかけを与えた人物としても知られている。 カール・マルクスは1842年のシュタインの著作『今日のフランスにおける社会主義と共産主義』から、社会主義・共産主義思想を学び、自らの思索を深めていった。マルクスはシュタインを通じて共産主義思想を学んだのであり、「社会主義・共産主義思想がマルクスによって生まれた」とする一般的な理解は、正確に言えば誤りである。 シュタインはキールにおいてヘーゲル法哲学、歴史法学を学び、イェナ、ベルリンで学んだ後、1841年10月から1843年3月までパリに留学し、フランス法制史を学びつつ、そこでコンシデラン、プルードン、ブラン、カベといった社会主義者、共産主義者らと交わり、そこで得た知識を元に1842年に『今日のフランスにおける社会主義と共産主義』を著した。また、国家学・行政学の立場からはパングステン法学によって統一法体系を作ろうとしたプロイセン(ドイツ帝国)の法政策を批判した。 キール大学在職中、シュレースヴィヒ=ホルシュタインのデンマークからの独立運動に参加。ドイツ海軍設立委員として活躍する。しかし運動敗北後、彼は大学を追放された。その後、シュタインはウィーンにおいて職を得て、国家学者、行政学者、財政学者として名声を博した。更にシュタインはジャーナリズムにも関わり、多くの新聞や雑誌に学術論文や時事論文を掲載している。 また1882年、憲法事情研究のためにヨーロッパを訪れていた伊藤博文がウィーンのシュタインを訪問して2ヶ月間にわたってシュタイン宅で国家学の講義を受けるとともに、日本が採るべき立憲体制について尋ねたところ、シュタインは日本の国情・歴史を分析した上で、あえて彼はプロイセン(ドイツ)式の憲法を薦めた(なお、この際伊藤は日本政府の法律顧問として招聘したいと懇願しているが、高齢を理由に辞退して代わりになる候補者を推薦している)。実際に制定された大日本帝国憲法の内容にシュタイン学説の影響は少ない(伊藤とともに憲法草案を執筆した井上毅がシュタインに批判的であったため)が、伊藤にドイツ式を選択させた背景には彼の存在が大きい。 マルクスはシュタインの1842年の著作を通して私淑し社会主義と共産主義を学んだが、シュタインは同時代人としての弟子マルクスを、数多い著作において一貫して無視しつづけている。 "http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%84%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%B3" より作成 カテゴリ: ドイツ社会主義 | フランス社会主義 | 共産主義者 | 19世紀の社会科学者 | ドイツの社会学者 | 1815年生 | 1890年没 | 大日本帝国憲法 カール・シャッパー(Karl Schapper 1812年 - 1870年)は、秘密結社「正義者同盟」(別訳語:「義人同盟」)の創設者で、同同盟を秘密結社「共産主義者同盟」へと移行させることを推進した人物。マルクス、エンゲルスらを取り込み、対立するヴァイトリング派に抵抗した、中心的存在である。また第1インターナショナルの総評議会委員をつとめた。 1812年、ヴァインバッハの地方の牧師の子として生まれる。1831年、ギーセン大学(農林学科)で学ぶ。この頃、学生組合に入り、1833年にはフランクフルト蜂起に参加。スイスに移ってマッツィーニのイタリア・サヴォア州遠征において亡命ポーランド人部隊とともに行動をしている。ドイツ人手工業者たちとも関係を結び、手工業職人協会創設に尽力。 シャッパーは、1834年創設の秘密結社「追放者同盟」の一部を吸収して新たな秘密結社である正義者同盟(義人同盟)を設立。1839年、ロンドンに移ると、1840年2月に「ドイツ人労働者教育協会」を設立。この組織が各国の亡命活動家たちやチャーティスト運動の事実上の結集軸として機能することになる。こうしてシャッパーは左翼活動家の国際的連帯を目指して運動を展開していく。 この過程でシャッパーは、従来のブランキおよびヴィルヘルム・ヴァイトリングたちの考える直接蜂起行動の見直しを行い、独自の段階革命論の構想を持つに至る。 ヴァイトリング派との対立を深める中で、シャッパーは当時、孤立していたカール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスとの連携を決断。1847年6月に共産主義者同盟第1回大会を行う。この際の綱領草案『共産主義の信条』はシャッパーのイニシアティヴにより書かれたものである。11月に第2回大会が行われ、この中で綱領の執筆をマルクスに委任することが決議される。こうしてシャッパーの校閲を経て1848年2月に出版された文書こそが『共産党宣言』(共産主義者宣言)である。 1848年革命挫折後は、革命の今後のあり方を巡り「ヴィリヒ=シャッパー派」としてマルクス派と対立。後に和解する。1870年死去。 "http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%83%E3%83%91%E3%83%BC" より作成 カテゴリ: 共産主義者 | ドイツ史の人物 | ドイツ社会主義 | ヨーロッパの社会主義 | 1812年生 | 1870年没